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【国立科学博物館】 企画展「没後100年記念 田中芳男 ―日本の博物館を築いた男―」 内覧会レポート

2016年8月30日から9月25日まで、国立科学博物館にて 企画展「没後100年記念 田中芳雄 -日本の博物館を築いた男-」が開催されます。8月29日にプレス内覧会が開催されましたので、展示の様子をお伝えいたします。
 
田中芳男氏は、幕末から明治、大正にかけて植物学や博物学を基盤に殖産興業から農林水産業へと、日本の近代化に多方面から貢献した人物です。田中芳男氏がいなければ、日本の博物館や博覧会は今日ほど立派なものを目にすることができなかったかもしれません。
 
本展覧会は4章から構成されています。第1章「“田中芳男”の生い立ち」、第2章「明治政府における“田中芳男”」、第3章「学者としての“田中芳男”」、第4章「“田中芳男”が思い描いた近代国家「日本」」。各章には3つのキーワードが設けられ、国立科学博物館所蔵の資料を中心に44件の貴重な資料が展示されています。
 

それでは、展示風景をご紹介していきます。


第1章「“田中芳男”の生い立ち ―飯田・名古屋・江戸―」
 
田中芳男氏は長野県飯田市に医師田中隆三(如水)の三男として生まれました。幼少より父親から学問の手ほどきを受け、家にあった「本草綱目(ほんぞうこうもく)」や「気界観瀾(きかんかんらん)」、「遠西観象図説(えんせいかんしょうずせつ)」といった海外の科学に関する翻訳書を読んでいました。飯田時代に田中芳男氏が自作した「音訳彙纂(おんやくいさん)」が今回展示されていますので、ぜひご覧になってください。

名古屋では、伊藤圭介氏との出会いが田中芳男氏の人生を大きく変えることとなります。

また、慶応3年(1867年)に開催する仏国万国博覧会に江戸幕府は参加することを決定しました。その出品物の収集に田中芳男氏は奔走して、パリへ渡航します。ここから博覧会との繋がりが始まります。

田中芳男氏の取り巻く環境、そして好奇心がこの偉大なる人物を生み出したのでしょう。

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第2章「明治政府における“田中芳男” ―官僚・博覧会・博物館―」
 
文部省が設置されると出任し、博物局の開設とともに博物局掛となります。博物局での仕事は、各地の物産を集めてその紹介を行うことや、併せて政府に参加の依頼があったオーストラリアのウィーンで明治6年(1873年)に開催された万国博覧会の準備でした。万国博覧会のため集めた物品を陳列する文部省博物館による博覧会を明治5年(1872年)に湯島聖堂で催すこととなります。湯島での博覧会の開催により、国内各地で大小さまざまな博覧会や共進会が開かれるようになりました。

また、明治5年の博覧会では、国内のさまざまな物品の陳列が好評を博し、再三延長となったため、閉会後も日を限って公開を行いました。これが博物館(現東京国立博物館)の創立です。

万国博覧会に参加しなかったら、国内で博覧会を開催しなかったら、博物館は誕生しなかったかもしれません。博物館の誕生には、田中芳男氏が大きく係わっていることがわかります。

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第3章「学者としての“田中芳男” ―蔵書・標本・スクラップブック―」
 
本草学・博物学の泰斗伊藤圭介氏に師事した田中芳男氏は、日本の植物学・博物学に大きな足跡を残しています。

植物学では、明治5年(1872年)に西洋の植物学書を訳述し、「林娜氏植物綱目表(りんねししょくぶつこうもくひょう)」などを著して日本に近代的な植物分類体系を紹介しています。また、若い頃から植物採集旅行により植物標本を多数作成しており、国内各地の各機関に現存します。

博物学では、ラベルやチラシ、手紙といったさまざまなものを貼り付けたスクラップブック「捃拾帖(くんしゅうじょう)」を生涯にわたって作成しました。この資料は、幕末から明治、大正における社会風俗を知る上で非常に貴重な資料群です。

田中芳男氏の蔵書には、さまざまな書き込みと共に「田中芳男」「田芳」の自筆サインや「田芳」の丸印が押されていることが多く、彼の人となりを知ることができます。

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第4章「“田中芳男”が思い描いた近代国家「日本」 ―振興・教育・啓蒙―」
 
明治政府主導の殖産興業が民間に普及する際に、その技術や情報を広く伝える事に重要な役割を果たしました。大正2年(1913年)5月には“田中芳男君七六展覧会”が開催され、田中芳男氏が収集した資料や標本、自身の制作物や著作物などを展示しました。彼の殖産興業に対する並々ならぬ思いを感じることができます。

明治24年(1891年)、三重県伊勢に田中芳男氏が建設を委嘱された神宮農業館が開館しました。農業の歴史を示すという当初の方針から、農林水産業を中心に園芸、牧畜などを含む殖産興業を広く紹介する博物館へと田中芳男氏の考えにより展示が変更され、その資料収集や展示には田中自身が深く関与しています。この博物館では、絵解きを基本にさまざまな模型や標本資料などを展示し、殖産興業を分かりやすい内容で展示を行い、一般への啓蒙普及に役立てられました。

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生物や植物の写生はとても緻密に描かれており、標本も分かりやすく丁寧に作成されています。博覧会でその写生や標本により、当時の人は、見たこともない生物や植物を知ることができたのでしょう。

現在、私たちが当たり前のように博物館を見学したり、国内で色々な博覧会が開催されているのは、江戸時代から明治・大正にかけて、田中芳男氏が資料収集・標本の作成、殖産興業に尽力してくれたおかげではないでしょうか。

展示されている資料はどれも素晴らしいものです。昔にこんな凄い資料が作れたのかと感動すらしてしまいます。
まさしく日本の博物館を築いた田中芳男氏の世界に踏み込んでみてはいかがでしょうか。


展示会の開催概要はこちら:
https://home.ueno.kokosil.net/ja/archives/8606


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